有機栽培果樹園の恵みと奄美の果物たち 有機JAS認定農園 福留果樹園

福留果樹園

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家の光 平成14年3月号 取材/茂島 信一

サトウキビから果樹への経営転換。
亜熱帯気候での無農薬有機栽培や加工品づくり。
島の常識を打ち破ることは、やがて女性起業家の道へとつながっていった。

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冬なのに気温20度をうららかな午後。グァバジュースと島ミカン(野生ミカン)ジュースの発送作業が始まった。宅配便の荷札には、北海道の住所も記されている。

奄美諸島の一つ、徳之島。島の南部、伊仙町にある「福留果樹園」は、遠く離れた都会からの注文で大繁盛している。その代表者が、福留ケイ子さん(58)だ。

「夫は勤め人だったんです。だからわたしが代表なの。その夫も定年退職して、わたしに弟子入り。そうよね、お父さん!」
南国の太陽のようにパワーあふれるケイ子さんの問いかけに、穏やかな笑顔でうなずく功さん(65)。夫婦仲のよさも福留果樹園の自慢だ。

発送する商品は、グアバ、タンカン、ポンカン、パパイア、ビワ、マンゴー、島バナナ、インゲン、ニンニクと実に幅広い。「物がないと売れないから」と、周年出荷の態勢を築いてきた。

消費者との産直がメインで、「島バナナの会」というグループを通じての販路と、口コミで広がった個人の販路がある。配送費用を考えればけっして安くはないのだが、それでも人気を集めているのは、有機無農薬栽培だから。約20年間の努力のかいあって、昨年11月には有機JAS認証も取得した。

学びつづけたい たくましく、おおらかに いつだって前向きに

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亜熱帯気候での有機無農薬栽培は至難のわざだ。雑草の生長が早いうえに、土着菌による養分の分解も早く、土は肥えにくい。おまけに雑草を刈るのも命懸け。猛毒のハブが出没するからだ。だが、そんな悪条件にひるむことなく、 「作物にいいということはなんでもやってきた」というケイ子さん。本や知人から学びながら試行錯誤し、牛糞の堆肥とボカシ肥で土づくりに励んできた。

堆肥は収穫後、緑肥となる敷き草の上に、10アール当たり5トンも投入する。ボカシ肥は、近くの竹山から採取した土着菌をベースに手づくりするこだわりようだ。
「害虫は、朝、お父さんと畑に出て手で取るんです。今日は何匹捕まえたよ、なんて競い合ってね」
気が遠くなるほど手のかかる農業なのに、悲壮感はなく、おおらかなのもケイ子さんらしい。

「できるだけでいいという気持ちもあるんですよ。出たとこ勝負だけど、いつも前向きにいこうって」

傷物や売れ残りが出れば、ジュースに加工。いまやグアバジュースは年間7,000本を売り上げる。葉も利用してグアバ茶を作り、年間6,000パックを販売。たくましい工夫が、次々とヒット商品を生んでいる。

「でも、もともとは全部、お金がない時代の自給用。なんにもないから、アイデアを出すしかなかった」

常識を打ち破る

意外なことだが、かつて徳之島には果樹農家は存在しなかった。ほとんどがサトウキビ農家で、福留家もそうだった。干ばつや台風が多い苛酷な気象条件のなかで、安定した収入が得られるのはサトウキビだけ。果物は庭での自給用か、野鳥の餌。そんなイメージしかなかったという。
ところが、島で生活する人の命綱ともいえるサトウキビ畑を、ケイ子さんはがらりと果樹園に変えてしまったのだ。当然、周囲は驚いた。

「『上等な畑に果物なんか植えて』と反対され、『バカか』とも言われましたよ。大きな賭けでした」

ケイ子さんは結婚以来、サトウキビやジャガイモなどを作り、泥だらけになりながら働きに働いて必死で家計を支えてきた。とくに二人の子どもが島外の高校や大学で学ぶようになると、毎月の仕送りは月20万円にものぼった。
だが、国の保護の下にあるサトウキビは、安定した収入にはなるが、値段は決められている。いくらがんばっても、生活は苦しいまま。おまけに収穫、出荷は重労働だ。高齢化などで地域の人手は減りつつあり、夫の定年退職後の生活にも不安が募った。

「女手一つでもやれる新しい農業はないだろうか」

閉塞感のなかでいつしか、当てもない夢を模索するようになっていた。
そんなとき、県の指導でビワとタンカンの普及が始まる。1985年のことだ。夫の定年まであと10年余り。子どもたちも大学を卒業した。ケイ子さんは思いきって、果樹園づくりに投資する決断をした。
そして、40アールのサトウキビ畑は石ころだらけの畑に生まれ変わった。ビワやタンカンの弱々しい苗木は、まわりからどんな目で見られようとも、ケイ子さんにはようやく手に入れた希望の光だった。
だが、それは雑草との闘いの始まりでもあった。果樹園はたちまち草山と化した。誤って、せっかく根づいた幼木を切ってしまったこともしばしば。不安と焦りで眠れない日々が続き、とうとう円形脱毛症に・・・・・。それでも家族や友人の励ましに支えられ、自らを叱咤した。

「植えたころの情熱を思い出そう。苦しくても希望を捨てまい」

じっと我慢の3年が過ぎた、春の日。ビワがたわわに実った光景を目にしたときは、驚き、そして泣いた。6年目には、サトウキビ栽培ではどうしても届かなかった年間所得300万円の壁を軽々と超えていた。

消費者が教えてくれた

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約20年ほど前に、愛知県から移り住んできた奥田隆一さんとの出会いも、大きな転機になった。それまで気づかなかった島や農業のすばらしさ、生態系における農業の役割などを学び、また奥田さんの橋渡しで、消費者グループとの交流も始まった。

「アトピーやゼンソクなんて病気があることも、初めて知りました。ああ、この人たちに喜んでもらうために、よいものを作らなきゃと心から思うようになったんです」

有機無農薬栽培に本格的に取り組み始めたのもこのころからだ。また、生活に余裕がないなかで、来園者にもてなしていた手づくりのジュースやお茶は、やがて商品へと成長した。
起業化のおかげで、果樹園の業績はいまも着実に伸びている。けれど、ケイ子さんにとっていちばんうれしかったことは、定年祝いの席で夫がかけてくれた言葉だったという。

「あのとき、果樹に切り替えてくれてよかった。ケイ子のおかげだ」

農家ってなんてつらい仕事なんだと恨んだこともある。でも、今は胸を張ってすばらしい仕事だと言えると、ケイ子さんは話す。

「だって、やり方しだいで企業として成り立つんだから、でも足りないものは、まだたくさんあるはず。もっと商品をレベルアップさせたいし、もっと学びたい」

夢は生涯現役であり続けること!と笑う、肝っ玉母さんのチャレンジ精神は、頭上に輝く太陽のように、休むことなく燃え盛っていた。

取材して頂いた、茂島さん、高木さん、ありがとうございました。